「アイルトン・セナ (F1レーサーチャンピオン)の事故死の原因」 2006/8/26

前回の易日記に、次回はアイルトン・セナを占って書くと書いたら、「セナの事占いでどうでるのかとても期待している」というメールが沢山届いてしまった。
ブラジル人であるセナの熱狂的なファンが日本にも多くいる事を、私宛に届くメールから知った。
占って、いざセナについて書こうと思うと、私はセナについて何も書けないと思った。
F1レースというものに興味がなかった私は、F1もセナについても配慮できないし語る言葉さえも見つける事が出来ない。
これでは占った答えを書くだけと成ってしまう。
こんな内容の無い私が占いでセナについて書いては、セナを心から思うファンの大切な聖域を汚すことに成り、それがとても後ろめたくなり、セナについて書くなどと予告するべきじゃなかった・・と深く後悔した・・。

F1って何のことか、セナって誰なのか、説明しなくても、おそらく99%以上の人はセナの事故死を知っているのだろう。

だから、私の詳しい説明なんて不要で占った答えだけ書けば大丈夫なんだろう。
「セナの事故死」について判りやすい言葉で説明しないといけない気がした私だったが、これがまともに出来ない。
F1を説明しようとしてもほとんど幼児語になってしまう。
「車の背がすごく低くて、床をはいつくばるように走る車が大きなエンジン音を立てながらスピードを競いあう。それに乗って競争するのがF1レースっていうのだけど、、、すごいスピードが早くて天才といわれたレースのチャンピオンが、競技中時速300キロで壁に激突して死んでしまったんだって・・・」

つまり、F1レーサーチャンピオンとしてのキャリアを持つ天才レーサーが1994年5月1日サンマリノのレース中に、ハンドルも切らずに猛スピードで壁に激突して死んで行った事実が謎の死となり、
どういう理由でセナが死んでしまったのか、天才レーサーが壁にぶつかるなんて自殺ではなかったのか?マシンに欠陥があったのではないか?テロによる暗殺ではなかったのか?彼の死が謎のままになっているというので、死の原因を自殺かマシンの欠陥かを占ってはっきりさせようという気持ちになった。

占いに出た答えは、セナの死は人為的な事故であった。
そして、それはセナを恨む者が謀ったマシンへの細工によるものだった。
当然、レース前に整備士が念入りにマシンのチェックを怠りなくする。
卦によると、セナのマシンへの細工はある程度の負荷が長い時間かかることによって、ステアリングの中心部分が外れるような細工で、点検だけでは不具合として気づけないように操作されていたと易に示された。
セナのマシンに仕掛けをした人物は、セナにとって信頼できる仲間だったようだ。
セナは気さくで誰とも打ち解けて友達になってしまうので仲間は多いとは想う。

ハンドルがまったく利かずにセナはギアを落としたが時速300キロのスピードで一気に急ブレーキをかけることも出来ない状態だったと易は言う。
壁に激突する瞬間に、セナは「死」を意識していた。「もうダメだ」と思いながらも最後まであきらめない闘志があった。
死を自覚しながらの最期までのほんのわずかな瞬間にセナの心の中に浮かんだのは彼と関わり親しんできた仲間や愛する者達だった。
結婚していたようだが、奥さん以外に好きな女性もいたようだ。
セナの人柄は、気さくで話し好きで柔軟性があり他人の考えにも気持ち良く共感できる人当たりのよい人だったらしい。
勝負事が好きで自分のF1への可能性に絶対的な自信を持っていたが、レースに賭ける自己に対して妥協を許さず最高を目指自分に時々危険を感じ、生と死をとても身近に感じてもいた為に、その分、小さな出来事にも充実感を感じたり人にも優しい気持ちに成れていたと易は言う。

最後に、今あの世でセナはどうしているかも占ってみた。
あの世の事など、観る事が出来ないのでうそ臭くてここまで書くと、信用を失いそうだが占って出た答えとして書く事にする。
セナはあの世でもレースをしていると出た。しかし、あの世のレースはこちらと違って、規模が小さいのが物足りないらしい。

余談

お問い合わせメールですが、同じご質問が数件ございましたので、こちらにお返事を書かせていただきます

-「京都、大阪、神戸あたりで石井先生 も認める占い師の方をご存知であれば紹介していただけないでしょうか?」

申し訳ございません。
情報を取るのが苦手な為に私もまだ把握できずにおります。
もしとてもよく当たる方がいらっしゃいましたら、私にも教えていただきたいと存じます。

   
映画「ゲド戦記」

「ゲド戦記」のテーマ曲の唄、いい感じで好きです。
哀感漂う歌声と静かで柔らかなメロディに聴きほれます。
この映画は、この唄のような哀愁を持ち、私のさび付いた心に気づきを与えてくれるに違いないと期待させるほど、私のココロを刺激してきます。

唄の最初のフレーズ『ココロを何に例えよう~♪』

私が掴めないでいるココロを、まるで野の花を一輪やさしく摘むように、実にさりげなく自然なココロの姿を、そのまんま目の前に優しく無理なく引き出してくれる映画に違いない!
きっと映画に涙を流して感動してしまうだろうと、タオル地のハンカチとテッシュを用意していきました。

映画でこの唄が流れてきたところが一回だけありました。
物語の内容と不似合いの場所に無理やり唄を導入した感じでした。
唄の深さと映画の構成が合っていませんでした。
涙を流せる場面もありませんでした。
映画に求めた感動をあまり得る事が出来ない私でしたが、
私の心が鈍感で感動できないくらいにダメになってしまっているのかもしれません。
淀んだ自分の心を目覚めさせ綺麗に洗い流してくれるような、そんな映画を観たいと思う今日この頃です。