腰痛と坐骨神経痛による不調で今年に入ってから三ヶ月間、ただ息をしているだけの生活でした。
ほんとうに虚しかった
しみじみと悲しかった
たまらないほど情けなかった
いつまでも苦しくて、なんでこんなに直らないのか!!と、焦る三ヶ月間だった。
おかげさまで最近は歩けるようになって来ましたが、まだまだ痛みはしつこく私の体に住み付いております。
一時は症状がどんどんと酷くなる一方で、痛みで立つことすら、足の裏を布団に触れることすら悶絶するような激痛でトイレも自力ではいけないほどに…。
地獄でもこんなに動けない目にはあわないだろう!だってここまで動けなかったら地獄で生きていけない!地獄の苦しみを味わう為には、もうすこし元気でなければならないはずだ、と、そう思えたし、地獄も天国も、特定された場所ではなくて、やっぱり自分の心にあるんだな~~~と、そう心から思えた。
病院では入院を勧められたが、治療の為ではなく検査と安静の為だけというので、入院すればパソコンも見れないし、と家で寝て過ごすことにしたのです。
元気な時は、ゆっくりと本を読める人生を送れるのが理想だったので、入院したら思う存分本が読めると思ったのに、痛み止めで頭が朦朧となる為、結局健康でないと本も読めないことに気が付いた。
時間がたっぷり与えられ、脳も冴えてやる気に満々という理想の状態は、私には得られない気がしてきました。
こんな感じで年明けから何もしないグータラな日々をずっと過ごしていたら、あっという間に桜の季節がやってきて、月日の速さに愕然となっております。
しかし痛みで体の痙攣が止まらないし、痛い治療で暴れて泣き叫ぶなんて、こんな事は我が人生初めてでした。
ここまで痛がる人は今まで居なかったでしょう?と、治療院の先生に言うとそこは骨接院なので、叫ぶ人は日常茶飯だそうです。
病院にいくと不健康で苦しんでいる人がいっぱいいるんですね。
なんで病気なんかがあるんだろうか?
病気は不幸だ、病気で苦しむ人は可哀想だ。
この世に病気があってはならない!!
そう強く考える私でしたが「なんで石井さんは痛い体験をたくさん味わうのでしょうね?」「腰痛を通して石井さんは何かを学ぶ必要があるんですよ」「腰に感謝しましょう、感謝すれば腰が元気になります」「腰痛の意味を知ったとき、腰痛は治まるんです、だから腰痛の意味に気が付きましょう」こんな意見を頂いた。
腰痛から学ぶ事がある為に神様が私に腰痛を与えたとは思えなかったが、いつまでも治らないでいると、何でもいいから早く治りたい気持ちから、腰痛から発する意味づけを無理やりひねり出すことにした。
どんな体験でも経験となり理解は生まれる。
まず私は、松葉杖をついて電車に乗ると席を強要していることになる後ろめたさを知ってしまった。
松葉杖の人が時々電車の出入り口の傍で立っている、あれは席を強要させる事を遠慮して、座っている人達に負担を掛けたくない人なんだ!と思った。
これからは、松葉杖の人に、そんな気遣いをさせないようにしたい、と思った。
街中で発作が起きて動けなくなったこともあった。
駅のホームで、重度の障害者のように膝同士が絡み合って立ち往生していたら、回りを一切見ずにマイペースでカートを引きずって歩く中高年の女性がいた、松葉杖にカートをぶつけてくる・・・、年を取った女性は、他人が気をつけてくれるのを信じているようで自分自身は周りに気を配らない人が多いかもしれない。
見るときは冷たい視線で睨み付けるのも中高年の女性に多いが、私自身も目つきが悪いから老化すると人相も険しくなってしまうのかもしれない、とこれも自分を省みたい。
声をかけてさっと腕を支えてくれた人が3人いた。
一人は60過ぎの女性で、あとは20代と30代の女性だった。
60過ぎの女性は自分も腰痛だったので解かるといい、30代の女性は親が腰痛だから分かると言っていた。
そして整形外科の待合室では、知らない患者さん達がとても親切だった。
車椅子を持ってきましょうか?とか無理しちゃダメだよ、と腕を支えて歩いてくれたり、看護婦さんを呼びに行ってくれたり、優しい人の集まりだった。
体の痛みも心の痛みも、痛みを本当に知った人は、本当にあたたかい。
健康で病気をしない人は、病気の人に向かって「働かなくちゃ食べていけないから病気なんかしていられないのよ。病気になるのはユトリがある証拠!甘えよ!」と言う人が多かった。
病気だけでなく、心の問題でも同じことで、どんなことでも体験しないと本当のところまで理解することは難しい。
元気で動き回っていた時の私は、気持ちが明るかったし楽しかった。忙しくてゆとりがなかった。楽しければ反省する必要も感じないし、ゆとりがないということは考える余裕も生まれなかった。
元気で楽しいと、反省心が生まれづらい。
めげてどうにも成らないほどに落ち込むことって、私には必要な事だった。
何の不安もなく満足したまま我が道と信じて歩き続けていたら、自分にとってそれが幸せのように思えても、見えるべき事を見逃している。
知るべき事を気付かないまま、自己満足して、陳腐な自分のままで人生が終わって行く人生に納得できない。
無限に生きる魂だからこそ陳腐な魂から脱したい。
何も出来なくなったことの焦りと不安、苦しくてどうにも成らないこの気持ち、これがあるべき心構えを考えさせる元になってくれた、と今思う。
私から易を習い始めたばかりのお弟子さんがいるが、まだ3度しか習いに来てないのに、私の具合を心配して易で私の様子を占っていた。
私が具合の悪い真っ最中に、なかなか治らないと言う易の答えを私に知らせたらショックを受けると案じ易の卦を見せなかったそうだが、先日その卦をその新米のお弟子さんが本人の解釈と一緒にメールで送ってきた。
日をあけて、わたしの体調を2度占っているのだったが、習いたてとは思えないほど、お弟子さんの判断が見事というほど当たっていたし、私の体調がどんな状態で、どういう理由と原因で今の状態があるかという事が易の卦面に余すことなく出ていたので、驚いた。
直接私に体調を確かめなくても、私を見なくても、知りたいと案じる相手の状況をこうやって易は教えてくれる事が、なんと凄いことなのだろうと思えた。
習い始めたばかりのお弟子さんにも、易がちゃんと答えてくれている。
情報をしっかりと知る手段がこの世に存在している。自然な宇宙の情報網があるとしかおもえない。
古いお弟子さんも、ときどき私の状況を易を使って占ってくれているらしい。
いきなり、「先生、先月酷かったでしょう?」などといわれたりする。
「あら!占ったの?」と思いながら、私の安否を気にかけてくれる優しさがありがたい。
こうしてお弟子さんの易や私の易を通して、愛情をもってその人の幸福を願って占っている易は外れる事が全くないということだ。
わたしの易の先生も、『困った問題では外れることは無い』と断言していた。
しかし、当てモノとなると外れる事はあった。
当てモノは外れる事が多く、本当に困った相談は外れないというのは、相談の内容に愛が存在しているかどうかの違いなのだ。
思いやる、心配する、幸せになってもらいたい、その意識が、純粋で愛ある神様に通じるアンテナになっていると思える。
病気の治療に関しても、何かを育てることに関しても、する側が愛を持っているかどうかで効果は全く違ってくる。
勿論、する側の愛だけよりも双方に愛があればますます天の支援も届きやすくなるのだろう。愛という意識が、宇宙の無限に存在する大きな波動と合うのではないだろうか。
宇宙のエネルギーの9割以上が判明されていないらしいが、人間も小宇宙なのだから人間と宇宙はしっかりと反応しあいながら結びついている。
最近は、思うことが多いのだが書く事が難しく、思っていることの半分も書けなかったが
この世はわれわれが想っている以上に神秘な世の中で、謎とメルヘンの世界なのである。
人間も宇宙もすべて神秘であり無限にある神秘現象を学ぶことは意外とたやすく、たくさんのヒントがこの世にはあるようだ。
人間は無限に進化する存在であり、神秘を極めながら進化できる事がこの宇宙で生きる一番の醍醐味なんだろう。
余談
皆さんにはたくさんのご心配頂くメールや、良い治療のご紹介を頂きました。
多くの皆さんの温かさにとても感動しました。
本当にご親切ありがとうございます。
健康雑誌の取材記者さんからまで、取材していて驚くほどすごいと知ったという治療師さんをご紹介していただいたり、まるでおいしいものの見本市のように凄腕の治療師さんのリストが出来たと思えます。
わたしの不調は、治療だけでなく、治るまで時期を待つのが必要のようですので、もう少し待つことになりそうですが、おかげさまで随分と良くなってきております。
社会保険庁から、わたしに届いたお知らせによると、過去10年分以上就職していたときに収めていた厚生年金がまったく記録されていませんでした。
退職して国民年金に切り替わったときだけの記録でした。
社会保険庁に行って、過去の就職先の住所から就業年月日を報告しないといけないのですが、ありえないほどずさんな社会保険庁ですね。
社会保険料の一部を横領してしまった記事が新聞に出ていましたが、その横領分も国民の税金で穴埋めするのでしょうか?「消えた年金」に比べたら芥子粒のようなものですが。
しかし、こんなにずさんな社会保険庁でもなぜ国民は怒らないのでしょうか?
社会保険庁での手続でも、自分の老後のために積み立てきたものに対しむちゃくちゃな対応をされ迷惑を掛けられているのに皆穏やかに見えますね。
あれもこれもすべてが理解できない私はかなり頭が悪いのでしょうか?
普通の企業では仕事を失敗すると休み返上で対応をします。
経理などは一円でも合わないと合うまで責任追求され、残業代(今の時代はいただけると思います)もらえずに仕事させられますよね?
だけど、なぜ、お役所となると、仕事で大恥以上の失敗をしても土日返上で国民の対応をしてないのでしょうか?
役所は偉いという意識が昔の悪代官のようにあって、悪い事をしても問答無用、そのために民のためという意識になれないんでしょうか?
大方の人が自由できる時間を持てる土曜・日曜に平気で対応しないなんて普通の世間常識の感覚ではないですよね?
まさか社会保険庁の誤りで国民を事務所にわざわざ平日に来させた挙句に長い時間待たせ「昼休みは休憩時間ですから」なんてことはないでしょうね?
仕事は上手く行かなかった場合、軌道修正できるまでできる限りのことをするのが一般社会の常識であり、社保庁は民を軽んじているように見えます。
ただ誤解のないように言いたいのですが、実際に現場で働いている役所の人たちは一生懸命やっていると思います。彼らも別な意味で被害者なのです。
このような状態、仕組みにしてしまった責任の所在を明確にし、本当に民の側にたった運用にしていただくことを切に願うばかりです。