「落とし穴」 2008/9/14

事故米のいい加減さに驚いていたが、昔も黄米というカビがついた米を平気で流通させていた事があった。カビが少量だから身体には問題ないと、当時の政府は弁護したが、実際は問題を沈める為の責任回避の政府の言訳だった。
政治家になる動機は自分の充足を得る為だけなのか?よい社会にしたいと言う正義の動機で政治家に成る人はどれだけいるのだろう。

今、韓国では大統領がアメリカから牛肉を輸入すると決めた為に韓国民は大騒ぎをしている。
一時は世界中がパニックになったプリオン病の牛肉だったが、ノド元過ぎれば熱さ忘れる日本は、もう肉の危険性を忘れてしまったのだろうか。

家畜のプリオン病の一つがスクレイピーだが、一時はプリオン病に世界中がパニックに成ったばかりだったのだが、スクレイピーも家畜のプリオン病の一つである。
牛海綿状脳病が動物の種類を超えて、あらゆる動物のみならず人間にまで感染してしまうのだから、そんな病をもった動物を餌にしたら危険極まりない。
そもそも牛も豚も草食動物の存在なのに、なぜ草食動物に羊など肉類を家畜の餌にしてしまうのだろう。
本能として食していた物を食べさせずに勝手に人間が家畜に肉類を与えたことは自然の理を無視した結果で、自然の理に逆らうことに人はデリケートな魂の領域を畏怖する心を失ってしまったとしか思えない。
今後の日本での食の被害がどうなっていくのか、食料品が高くなり得づらくなるだけならばまだありがたいことかもしれない。
お金を払っても身体に危険な食品ばかりになってしまう可能性が大いにあるからだ。

安心して生活することが難しい世の中になってきた。
この世の中は、落とし穴で満ちている。
この世が愚かならば、当然あの世でも愚かなことは終わらず続く。
死んでも生きても人間である限り、煩悩は不滅なのだから、あの世に行けば落とし穴がないということではなかった。

安全だと思っても、ここなら大丈夫だと思っても、人の存在する場所にはかならず落とし穴がある。
落とし穴と知らずに、安住の住処だと信じていきるほうが幸せかもしれないが、体を蝕む肉を食べながら幸せだと思っている事が本当の幸せとは思えない。
今の日本に流通している牛肉と豚肉が危険な餌を食べている為に、今後の我々を
蝕む危険性がかなり強いと言うのがわたしの易の答えとしてでてしまった。
国産ならば大丈夫かと占ったが、国産で安全なものもあるが危険な国産もあると言う。

我が家は焼肉とかとんかつが好きなので、豚ならば大丈夫かと占ったが、豚も
危険な豚があると出てしまった。
鳥ならばまだ牛と豚よりも安全らしい。
とにかく、食の安全がしっかりと確立されるまで気をつけたいと思う。
外国の肉を使って加工食品が作られているので、できるかぎり加工食品も食べないほうがいいだろう。
肉まんのおいしい季節になるが、シュウマイもおいしいのだが食いしん坊の私には修行のように辛いがとにかく肉類には気をつけたい。

余談

8月15日の日記「波阿弥陀仏」で霊が語った話を、易のお弟子さんが本筮易協会のHPで書きますと申しましたが、不本意な状態になりまして、その件に関して書く事をやめました。
私は霊界の人と交霊のような形で会話をした事が過去にもありました。
亡くなった母に会いたくて若かった私は母の霊に会いに行った事があったのです。
でも、私の母だと語ってきた自称わたしの母は、私の名前を生前とは違った名前で呼ぶのでした。
しかし、家で私がやっている事を霊の自称母は言い当てたのですが、私の事を言い当てても本物の母ではなかったのです。
霊と言う存在はこちらからは姿が見えませんから、簡単にこの世の人を騙せるのです。
霊が語ったから本当だと思ってはいけないのです。
国の頂点で働く人間ですら嘘が多いのですから、まして一般の人間も死んだ人間も嘘が
無いわけが無いのです。
生きている人間がこの世で騙されるように、あの世に行ってもまだ騙されるのです。
もし死んであの世に行ったとき、その世界で愛を感じさせる人がいっぱい居て、しかも
この世の人達の願いを叶えるために生きよう、人に何の感謝も求めずただひたすら
人の願いを叶えたい、という人々がいる世界にたどり着いたら、きっと自分は心が良かったので天国に近い世界に来れたと、霊界の愛の存在に喜びに満たされる気がします。
しかし、言葉はいくらでも良い事を言えるのです。言っている言葉と行いの差をしっかりと判断できる視点を持って生きなければ、死んだ後ですら騙されてしまうと思います。
この世にも宗教にかぶれて騙される人がいますが、自分で充分に考えられないことが原因であることが多いと感じます。
この世もあの世も、宗教にも、政治にも、人間関係にも、食べ物にも、落とし穴はたくさんあるのです。
人を騙して落とす方法は、人の欲の心を満たしてあげることです。
愛を実感させてあげることです。
認めて褒めてあげることです。
そのままでいいのですよ、あるがままのあなたでよいのです、と認めてあげることです。
あるがままでいて充分と思える人ならばそれで良いのですが、それっぽっちの自分でいることに満足感は少ないはずです。
本当の幸福感とか充足感は、苦しい経過を乗り越えて納得できる自分を見出すことだと思います。
人は悩みと欲の塊です。
この欲を満たして充足させる存在を善であり愛の存在だと思いがちです。
はたして人の欲を満たすものを、善であり愛の存在だと信じるのは正しいでしょうか?
意味の判らない事を書いていると思われそうですが、最近こんな事を考えています。