易に親しむ 2006/1/3

易に親しむ

あまり更新しないでいると、そろそろお叱りを受けそうな気がするので、取り急ぎ更新させていただきます。
占例というのは、何度見返しても新たな発見があるうえに、毎度毎度新鮮な情報を与えてくれるような気がしてならない。 
これが易の特色で、情報が古くなってしまうとかその場しのぎの答えではないという明確な証拠だと、私自身は感じています。
ところで自分で出した占例を見ると、ほとんど武術に関することばかりである。 もう少し、恋の悩みとか人生における進路の選択とか、
そういう世間的なことを占わないと偏ってしまう気がする。
さりとて、石井先生のようにひっきりなしに真剣な悩みを抱えた人を相手にする力量はまるでないので、無責任な話でもある。

今のところ役に立たないお遊び程度のレベルでしかないので、そろそろ気合を入れなおして、少しはできますといえるように
がんばらないといけないな と新年の誓いとして密かに考えております。
肝心かなめの勉強方法という部分では、石井先生の言葉 「易との葛藤」 中の中根先生の言葉
「易を習得するのに、易の本も読んではいけない!世間に出ている易の本には正しい事は書かれていないと思いなさい」
をなんとなく守っている、守っているんじゃなくて不精なだけでしょう? という指摘を受けそうな気もしますが、いちおう易の本だけはたくさん、
原書房さんで購入して本棚にある。  が、しかし本筮易の本でないと判ったとたんに、読む気をなくしてしまうのである。

略筮をなさる方からすれば、お叱りを受けそうであるが、「生の本筮」を石井先生に見せていただくと、易について書かれてある本がものすごく色褪せて見えてしまう。
これではいけないと思っていた矢先に、先の「易との葛藤」の原稿を石井先生よりいただいたので、なんとなくそうなのか と納得し過ごしている日々です。

占例は、ある意味完全に理解できない限り、禅の公案のようなもので、味わい深いものです。 いつになったら完全に理解できるのだろうか?
いつになっても完全には理解できないのかもしれないという部分の深さがおもしろくて素敵なところです。

いつでも思い出したときに参照できるように、自分用のデータベースを用意して、携帯や出先のネット環境からも閲覧でき、
なおかつ気が付いたことなどを書き込めるように、占例をいろいろ整理していたら、以前は意味がまったくわからなかった占例がなんとなく少しづ
つ紐がとけるように、伝わってくるような感覚があって、こういうものを集積していくとやがては少しづつでも判るようになるのかもしれないと
なかばこじつけの希望を見出した気がする今日この頃です。

投稿_管理人KM