老人の孤独の深い闇
昨日は、90歳のおばあちゃまが、お孫さんと一緒に来てくださいました。
若者の町 原宿まで、杖をついてきてくださって感激です。
待合の椅子で順番を待っているときから、ニコニコとなさって、まるで暖かな母親を思わせるような、なつかしい笑顔の方でした。
私の占いを頼って、おばあちゃまの運勢をよくしようと、歩きづらいほど混み合った竹下通りを歩いてきたというのです。
ご苦労の人生だったのか、実際の年齢以上にお年を取っているように見えました。
お子さんが4人いるそうですが、各子供の家をたらいまわしされて、一週間も同じ家にいることが出来ないこと、誰も家の人達と会話がないこと、
夕飯だけは貰えるが、それも一人でたべること、
自分の存在が迷惑な事がわかるので、老人ホームに入りたいといって市役所に相談に行ったが、相手にされなかったといって、涙をこぼし,鼻をすすったり、鼻をかみながら、一生懸命に語っていらっしゃいました。
今後の運勢を占ってみますと、穏やかに老人ホームで暮らせること、希望すれば娘さんの家に住む事もできること、生涯寝込まずに
朝おきる時間だと思ったら死んでいるほどの大往生をすること、だから心配しないで大丈夫だと申しました。
老人に死の話など、デリカシーのない事と思う人もいますが、このおばあちゃまは
寝込まずに死ぬ日まで元気にいられることを、いつも祈っているそうで、それは良かったといって、また涙を流されました。
でも、おばあちゃまの心の中は、ものすごい寂しさで、大海を一人でボートを漕いで渡らないといけないほどの、底冷えのする不安と孤独感で生きていると出ていました。
そう言いますとご本人もお孫さんも、大きくうなづいて泣き崩れてしまいました。
「本当に、自分はさびしい、自分は子供を4人産んだけれど、人生は死ぬまでさびしいもんですね。之も自分の生き方の責任と思って、受け止める気持ちでいます」
年を取れば、生き抜く力もなくなるので、不安は当然です。
老いの苦しさは、人生の学びとして乗り越えるべき最後の試練なのではないかと感じました。
体が思い通りにならない上に、家族から疎まれて、自分の存在を否定されるむなしさを、いつか自分も体験しなくてはいけないことの、怖さと緊張感は、大変なことです。
老年期の痛みを少なくするには、健康づくりと心の持ち方に、若い時から、かなりの根性を持って油断せずに生きる必要を感じます。
孤独感は、若くても子供でも誰もが持っているものですが、自力で生きる力のなくなった老人の孤独感ほど、深い孤独はないのかもしれません。
戦う事も、逃げる事もできない、ただ耐え忍ぶだけしか出来ない体になるのですから。
私は自分の恩師のお見舞いに行ったのですが、そこは老人病棟でした。
私が、お見舞いに行くたびに、向かい側のベッドにいる老婦人が、私をみて毎回
泣くのです。お見舞いに来てもらえる人をうらやましく思っているのです。
看護婦さんがやってきて、「寂しいんだよね。」といって手を握ってあげていました。
この老婦人には、誰もお見舞いに来ないのです。
気の毒に思って、翌週のお見舞いの時には、この方にも小さな花束を差し上げました。
すると、いつもよりも、長い時間しゃくりあげて泣かれました。
かえって、惨めな気持ちにさせてしまった気がして、申し訳ないと思いました。
もし私が同じ立場だったら、愛の情けを受ける自分の惨めさにやっぱり、悲しくなると思ったのです。
動くことの出来なくなった体で、死を待ちながら生きている老人の希望のなさを
知り、体が動けること、自分の人生を自力で歩めることが、どんなに輝かしく
魅力的なことなのかと、感じました。
神様から希望を一つかなえてあげると言われたら、きっと元気な体を持って
自力で生きることができるようにとお願いするのが、動けなくなった老人の希望ではないでしょうか。
誰もが老人になるのに、そのときが来るまで、
その孤独の苦しさ、何も出来なくなる自分自身のジレンマを、元気な時に気づかないで安穏として生きている人々は多いです。
もう少し、老人の「孤独のふかい闇」を理解していくべきだと思いました。
来週は、「親の愛のせつなさ」というテーマで、お客様の相談内容を書く予定です。
余談
先週の私の易日記に下着売りの話を書きましたが、想像するだけでも吐き気がして耐え難いと言うメールを頂きました。
さらに、私のリピーターのお客様からは、品のある占い師でいて欲しいから、お客様と鑑定内容を毅然とした根性を持って選別して欲しいというご意見まで頂きました。
わたしは、占いにかかわったおかげで、本来ならば、私にとって一生出会うことも無かっただろうと思う方と、心をわった会話をすることができております。
暴力団の男性ともはなしました、中学生の頃に、放火や殺人未遂でつかまった事もあった人です。
「もう今は悪い人間じゃなくなったの?」と質問をしましたら、‘こくん‘とうなづいていましたが、暴力団に入っているそうです。
オウムの麻原と同じ新潟の刑務所に今まで入って居たという、麻薬の密輸で捕まったというお客様もリピータさんで来ています。
殺人を犯した親を持っているお嬢さんも居ます。
お上品で美人のお嬢さんなのですが、親の罪の後ろめたさに結婚できないとおっしゃっていました。
日本の歴史上の有名人のお孫さんに当たる方もみえます。
もしわたしが、占い師にならずにいたら、こういった人たちが、自分とは別世界の人だという観念をもったまま生きていったと思うのです。
つまり偏見を持ったままの自分だったろうと思うのです。
でも、今はなんというか、そういった人たちの心を知ったり、親密な会話をする
ことによって、人の人格のどうにもならない感覚というものが、植物の種のよう
にあるのを感じるのです。
そういった人たちを、特別視したり偏見を持つのは、自分にとって、ものを見る判断が
固定されてしまうのを感じるのです。
また、どんな人でも、お話をしていますと、その人の持っている人間性の良さが見えてくるのです。
そのときに、そうやってしか生きることができない事も、その人にとっては、そのときに与えられている季節のようなもので、さけることのできないどうしようもない業のようなものに押さえ込まれているのを感じます。
また悪いことをして前科を貰った人も、心に罪悪感をもっているのを見ますと、誰の心にも善の心が潜んでいるのを感じるのです。
自分は、立派だとか、正しい人間だと思っている人が、罪悪感無く、卑怯なことや意地悪なことを平気でしていている人もいます。
つまり善人も罪はあると言うことです。
相手を傷つけることや犯罪などは勿論反対ですが、ある程度の事ならば、私には出来ないことでも、そうやってしか、生きることの出来ない人がいる事を受け止めて観るべきなのではないか、そこからお互いに、あるべき方向性を見つけることが出来れば、それが人にとっての生きる意味なのではないかと思うのです。
人や物事を、自分の固定観念に縛られずに、出来る限り中立の立場で観ていきたいとおもうのです。